JJ(爺)の海外個人旅行記

英語力もスマホ術も不安な70歳超えの爺。それでも海外個人旅行は人生を楽しく、豊かにしてくれます。そんな実体験を綴っています。

はじめまして

 

はじめまして。70歳超えのJJ(ジージ)です。よろしく。

特にシニアの方で海外個人旅行をしたいと思っている人に読んで頂けたら嬉しいです。若い世代(特にZ世代)の方々にも参考になれば、尚更ハッピーです。

  • 海外旅行に行きたいけど、団体旅行はどうも若い向け人のようで、移動が多く、ゆっくりしていない。
  • シニア向けの団体旅行もあるが、観光地、食事もセットされており、自分で考えることはほとんどなさそうだ。また、ホテルも飛行機もハイクラスで費用も高い。
  • かといって、個人旅行を企画するのは、面倒だし、不安だし、費用も含めて良く判らない。
  • こんな方で、自由度が高く、ワクワク感のある海外個人旅行を、楽に、またリーズナブルに計画、実行したいと考えておられる方

そんな方に、海外赴任経験もなく、英語力もスマホ術も不安な70歳超えのJJ(ジージ=爺)の海外個人旅行記(旅行準備内容や現地でのトラブル、感動など)を、ゆったりと発信していきたいと思います。

 

読んで頂く中で、個人の海外旅行は歳をとっても可能だし、その結果として、気力や体力も活性化され、なんだか人生、豊かで楽しくなりそうだなあ~ とそんな気分になって頂ければ幸いです。


なぜ海外個人旅行なの?

最大の理由は、定年退職直後に計画していたヨルダンへの団体旅行が、直前になって催行中止となり、急遽他社で個人旅行の手配をして、なんとか当初のスケジュールで行くことができ、この時の経験がやはり海外個人旅行は楽しいと思ったことが一番の理由です。

 

海外個人旅行でしたので、言葉も通じにくく、また、自由行動時や飛行機乗り換え時等に小さなトラブルもありましたが、それにも増して、現地案内人の方とお互いカタコトの日本語/英語で話が弾み、また、計画変更等の要望にも適宜対応して頂き(例えば観光コースにない路地裏に案内してもらい現地の生活実態を垣間見たりして)、有名観光地の思い出より、むしろ多少のトラブルや計画外の行程が、旅行後強く印象に残りました。

 

国内個人旅行でも、楽しみは同じでしょう。ただ違うのは、旅行先で言葉が通じ、トラブル時等での日本人としての行動や反応はほぼ予想がつきます。風景も旅館の食事も似たり寄ったりと、海外旅行に比べて苦労や感動がやや少ない様に思います。多少の骨折りやそれなりの刺激があった方が、旅はより面白く、前頭葉の活性化には良いのではないでしょうか。

 

団体旅行と違い、個人旅行というと若者の「バックパッカー」の様な、あるいは「自分で飛行機からホテルまで予約する必要がある」というようなイメージをされる方も多いかと思いますが、JJはそんな面倒なことは基本的にしません。

 

このブログで、まずは「海外個人旅行は、そんなに難しい旅ではなく、歳をとっても行けそうだ。何とかなりそうだ。なんだか楽しそうだなあ~」そんなこと思っていただけたら嬉しいです。

個人旅行が楽しいと思ったヨルダン(ペトラ遺跡

シニアの海外個人旅行は一石二鳥?

老後を迎えると、一般的に気力がなくなり体力も衰えます。持病を抱えている人も多く、資産の目減りが気にかかり、理由が自分でも判らないままイライラすることもあります。

 

JJも、大学卒業後、同じ会社で約50年間働いてきましたが、70歳で全く仕事から離れると、「これ」と言った趣味もなく、時間を持て余し、老化の一般的症状にプラスして、気持ちも大いに落ち込んでしまいました。

 

そんな時、これからの人生に向けての本を読んだり、友達の話を聞いたり、残りの人生でやってみたいことを少し考えたりしました。

 

結果、「これからは好きなことをして、その副次効果として気力や体力の維持につながれば一石二鳥ではなかろうか。楽しみも二倍に増えるかもね」と思う様になりました。

 

JJにとっての“一石”、それは「海外個人旅行」でした。”二鳥”は取ってつけた感はありますが、「気力:脳機能の活性化」と「体力:身体機能の活性化」です。これらをまとめて「脳体機能の活性化」と呼ぶことにしました。

 

個人旅行ですと、それなりの下調べや手配(旅行会社との遣り取り)も必要です。現地では身振り手振りでの表現力(意思伝達力)もいります。病気やトラブル発生時、アクションを取らないと何も進みません。また、終日観光ともなればよく歩きます。これらは、すべて脳体機能の活性化に良いのではないかと思います。

 

また、ブログをやってみようと思ったのも、「情報受信」より「情報発信」の方が、遥かに前頭葉を使うと書いてある本を読んだからです。

 

若い世代(特にZ世代)の方に

少し横道にそれますが、日経新聞の2024年9月17日の朝刊に「日本人は旅行をやめたのか」という特集があり、そのなかでのアンケート結果として「Z世代の57.3%は海外に行きたいと思わない」との記載がありました。

 

JJは約50年前の大学時代、アルバイト代と親にムリクリ頼んで出してもらったお金で、ヨーロッパ旅行に行きました。どうしても、普通のサラリーマンになる前に、海外をこの目で見て、肌で感じてみたかったのです。この鮮烈な記憶は今でも残っています。

約50年前(JJの学生時代)の海外旅行集合写真

Z世代は、生まれた時から、インターネットやスマホがあり、情報収集や海外でのコミニケションにも困らず、それほど個人旅行のハードルも高くないと思います。このグローバルな時代、海外を直に感じることは、必ずや、これからの人生にとって有用だと思いますので、是非海外に飛び出してみて下さい。英語力、スマホ術も不安な70歳超えのJJでもトライし、都度新鮮な刺激を受けていますので。

 

今後、旅行前の準備、旅行中のトラブルや感動、具体的なトライ例等をゆっくりと投稿していく予定です。ブログ自体初めてで、悪戦苦闘中という状況ですし、内容も「JJの人生後半の旅路の記録」的なところがありますが、どうぞよろしくお願いいたします。

 

なお、この「はじめまして」投稿以降、2025年5月20日までに記事とした訪問国に関しては、一覧を下記に載せていますので、宜しければ参照下さい。

 

jj-travel.hateblo.jp

 

 

最後まで読んで頂きありがとうございます。

ではまた。

 

メキシコ:メキシコシティでのメキシコ料理とイタリア料理

2024年春、メキシコシティに3泊し、ホテル近くのレストランで昼食や夕食をとることが多く、今回は、この紹介をさせていただきます。

 

下図の様に、宿泊先はリフォルマ通り/独立記念塔近くの「シェラトン・マリア・イザベル」でした。このホテルの印象は、過去ブログに書いていますので、よろしければそちらをご覧ください(最下段にリンク先を貼り付けています)。

 

個人旅行なので、夕食は自分たちで調達する必要がありますが、70歳も過ぎ、手間も考えると、なるべくホテル近くで済ませたいとの思いが強くなります。幸い、ホテルの裏側に位置するリオレルマ通りに、いろいろなレストランがありましたので、この辺りをウロウロして、店を探しました。

ホテル(シェラトン・マリア・イザベル)近くのレストラン

3日間の昼食、夕食の内容は下記の通りです。昼夜で計4回分を図示したお店で済ませたことになりますが、ここでは、1日目の昼食「El Mexicano Restaurante y Mezcalería(メキシコ料理)」と夕食「Attenti(イタリア料理)」での印象を書きとどめました。

 

1日目:昼食 El Mexicano Restaurante y Mezcalería(メキシコ料理)

    夕食 Attenti(イタリア料理)

2泊目:昼食 OPツアーで組み込まれていたレストラン(メキシコ料理)

       夕食 KOKU(日本料理)

3日目:昼食 市内フリー観光の途中で寄ったマクドナルド

    夕食 Don Asado(ウルグアイ料理)

 

1日目 昼食 El Mexicano Restaurante y Mezcalería(メキシコ料理)

成田からの直行便で約13時間のフライトにも疲れ、空港では、NETで安心だと載っていたチケット制のタクシー会社(黄色の看板文字の会社)に運賃をぽっくられそうになりながらも、あらかじめ運賃を調べておいたので、これはおかしいと思い、別の会社と交渉し、事無きを得、やっとホテルに昼の12時頃に着き、とりあえず荷物を預かってもらい、昼食に出かけました。

 

美味しそうな店を探すというより、近場でまずはメキシコ料理店であればどこでも良いのでは? ということで、雰囲気がいかにもメキシコらしい「El Mexicano Restaurante y Mezcalería」という店のテラス席に腰を下ろしました。道路に面したテーブルは開放的で椅子もメキシコらしく。昼間ですが、外は暑いと言うより、乾燥して少し肌寒いくらいでした。

メキシコ料理店(El Mexicano)

着席早速、店員さんから「スパニッシュ or イングリッシュ」と言われ、何のことやらとおもっていましたら、「メニューはスペイン語版か英語版か?」とのこと。もちろん英語版ですが、これを見ても良くは分からず、まずはいつもながら「ビアー」として、喉を潤しました。

料理より寧ろ、脚つきの黒くて無骨な食器が気になる

頼んだ料理は写真の通りで、名称不詳のタコスとアボカドのサラダ。これに付け合わせ(ライム、アボカド入りサルサ、トマトベースのサルサ)。ここで料理の記憶は余りありませんが(美味しかったのだと思いますが)、寧ろ気になったのは付け合わせ等を入れてある黒い無骨な食器に「3本脚」がついていたこと(写真中央にある五つの黒い小鉢)。

 

結局、後日、民芸品市場に行った折、この脚付きの(これに拘った)カラフルな小皿を自宅の土産として買って帰りました。ただ、この食器、自宅でどんな料理を盛っても、料理は全く映えません。日本の久谷焼きも結構、色鮮やかな小皿がありますが、これとは何故だか違いますね。

民芸品市場で購入した脚付きのカラフルな食器

食事をしていると、流しの音楽グループが、JJ達のテーブルにも来て、これもまた、いかにもメキシコらしい音楽を奏ででくれました。メキシコの伝統的な楽団「マリアッチ」とは程遠いとは思いますが、もちろんチップは払いました。

 

到着早々、疲れた体に心地よく、メキシコらしい食事や食器や音楽を味わえて、これはこれで良かったと思います。

 

1日目 夕食 Attenti(イタリア料理)

昼にメキシコ料理を食べ、どうも夜も連荘でメキシコ料理を食べる気にはなれず、イタリアンにでもしようかという事で、これもホテルから直ぐ近くのAttentiという店に入りました。

 

ビールは止めて、白ワイン、赤ワインにしました。それぞれグラスワインでお願いすると、写真の様に日本酒の徳利のような瓶に入ったワインを持ってこられ、「ワイングラスには自分で注いでお飲み下さい」ということの様でした。これなら量も定量で、合理的だなあ~と感心してしまいました。

いつも思いますが、どうして海外で頂くワインは安くて美味しいのか不思議です。

徳利のような瓶で提供されたグラスワイン

ここの料理の味もよく覚えていませんが、美味しかったのだと思います。JJは、日本でもまずければ、「この店には二度と行かない」と、料理内容を記憶していますが、普通に美味しければ余り記憶に残らず・・・(すみません食レポにはまったくならず)。

 

ただ、注文して出てきた料理を見て「だれがこれだけのピザ、イカリング、パスタを食べるの?」というくらいの量があり、残ったピザは持ち帰り用として、お店の方で、紙の箱に入れて下さいました(ありがとうございました)。

 

最近、海外で食事をしていてこれも良く思う事ですが、「量少な!」と思ったことはまずありません。単に歳をとって食べる量が減っただけかもしれませんが・・・

このピザ等、だれがこれだけ食べるの?

まず第1日目、昼はビールとメキシコらしい料理と雰囲気を味わい、夜はワインと量多めのイタリア料理を頂きました。まあまあ無難な食事内容でした。2日目以降は、近々投稿しますね。

 

最後まで読んで頂きありがとうございます。

ではまた。

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メキシコと日本(石見銀山):銀の道を辿って

過去記事「メキシコ:コロニアル都市と銀の道(その1)(その2)」で紹介しましたメキシコ中央高原のサンミゲルデ・デ・アジェンデ、グアナファト、ケレタロは、いずれもスペイン植民地時代に銀の採掘や輸送中継地として発展してきたという点で共通しています。

 

ところで、当時採掘された銀をスペイン人はどこに運び、なにに使用したのでしょうか? また日本にも石見銀山世界遺産に登録されていますが、これはどうなのでしょうか? 

 

「当時、銀が貨幣として使用されていたのだろう」程度はぼんやりとは思っていましたが、具体的にどんな物の支払いに使用されたのかが気になり、それぞれの銀の道を少し探ってみました。

 

いつ頃栄えたの

下表はメキシコ(グアナファト)と日本(石見銀山)の、採掘時期を比較したものです。なお、メキシコの宗主国である「スペイン」と、当時は「中国」抜きでは銀の流通ルートは語れないようですので、「中国」も表に入れています。

 

グアナファト銀山は、16世紀半ばに採掘が始まり、最盛期は18世紀だと言われています。一方、石見銀山も採掘開始時期は、グアナファト銀山とほぼ同じころですが、最盛期は短く17世紀前半までです。

メキシコ(グアナファト)と日本(石見銀山)の銀の採掘時期の比較

スペイン

まず、当時のスペインの国内状況をもう少し詳しく見てみます。上表を参照ください。

16~17世紀は、スペイン帝国全盛期の時代で、メキシコもスペインの植民地でした。当時はハプスブルク家(スペイン/ハプスブルク家)が統治していました。

 

18世紀はスペイン継承戦争により、ブルボン家(フランス)がハプスブルク家からスペインの王冠を奪い取った時代です。だだ、メキシコが植民地であったことに変わりはありません。この時代の国王としては、ルイ14世太陽王)の血を引く、カルロス3、4世があげられます。ただ、この時代から国力は衰退していきます。

 

話は少し横にそれますが、ハプスブルク家といえば、いつも、下図左側の「軍服姿のフェリペ皇太子(後のフェリペ2世)」と、右側の「ラス・メニーナス」の絵画を思い出します。「ラス・メニーナス」の画面中央やや左奥の鏡の中にフェリペ4世と王妃マリアナが写っています。

 

JJとして、これらの作品の素晴らしさを上手く表現することはできませんが、いずれもくすんだ背景の中に、贅を尽くした甲冑や衣装が映えており、これらはメキシコから搾取した銀がもたらした贅沢品の一つと考えられます。

 

グラナファトの銀はどこへ運ばれ、何に使われたか

16~17世紀、採掘された銀は勿論スペイン本国へ運ばれていました。一方で、太平洋を渡って、フィリンピン(マニラ)まで運ばれ、中国との貿易に使用されていたようです。イメージ的に下図の通りです。

グアナファト銀山の銀の流れ

スペインに渡った銀は、ここで硬貨に鋳造され、当時は事実上の世界通貨として、ヨーロッパ、アジア等で流通していたとのこと。銀はスペイン王室の歳入の柱であり、軍備や戦費、また宮廷の豪華な生活や贅沢品にも使用されたようです。

 

更にスペインは、メキシコの太平洋側の都市(アカプルコ)から、フィリピンに銀を送り、ここで、中国商人が本土から持ってきた絹や陶磁器を買い付けていたようです。余談ですが、フィリピンも当時スペインの植民地であり、国名のフィリピンもスペイン国王「フェリペ」からきています。

 

18世紀にはいると、国王がハプスブルク家からブルボン家に変わりますが、銀の流れに大きな変化はなかったようです。ただ、ハプスブルク家が軍事費や贅沢品に使用したのに対し、ブルボン家は軍事基地の建設や植民地の都市整備・経済の活性化に使用したようです。それでも、周辺諸国に比べ国力は衰えていき、グアナファト鉱山の採掘量も減っていったようです。

グアナファトの聖堂(フェリペ2世が寄進した聖母マリア像を祀っている)

石見の銀はどこに運ばれ、何に使われたか

前掲の比較表を見て頂ければわかりやすいかと思いますが、16世紀後半は日本の戦国時代(安土桃山時代)で鉄砲の需要が非常に高く、長崎や平戸を通じて、日本とポルトガル、スペインの間で取引(銀での支払い)が行われていました。

 

また、特にポルトガル人は、中国で絹や陶磁器を仕入れ、これを日本に運び、銀と交換し、この銀で更に絹や陶磁器を購入するという三角貿易もしていたようで、これらは南蛮貿易と呼ばれています。この時代も石見銀山から採掘された銀が重宝されたようです。

 

17世紀に入っても南蛮貿易は続いていたようですが、とくに江戸幕府から与えられた朱印状を持った西国の大名や京都、堺、長崎などの商人が,東南アジアなどへ船を出して行った貿易の方が活発となり、これは朱印船貿易と呼ばれています。

 

この朱印船貿易における東南アジアの拠点の一つがベトナムホイアンです。この時の物の流れと銀の流れのイメージ図は下図の通りです。

石見銀山の銀の流れ

ベトナムホイアンには、JJも2024年に行き、過去に「ベトナムホイアン 日本人街から中国人街へ、そして今は韓国人街?」というタイトルで投稿しました。しかし、当時、日本人はどんな商売をしていたのかあまり考えていませんでしたが、改めて調べてみると、日本商人はホイアンで銀を使い、中国商人からは絹や陶器を購入し、西洋商人からは武器や火薬を購入して、日本に運んでいたようです。これで、石見銀山の採掘も最盛期に入ったようです。

 

しかし、その後、江戸幕府鎖国令により朱印船貿易も廃止され、また、銀鉱脈も徐々に枯渇し、石見銀山も衰退していったようです。

ベトナム ホイアンの夜景

二つの銀山の共鳴関係

メキシコの銀山と日本の銀山を概括してきました。

 

これら二つの銀山の最盛期は多少前後し、16世紀後半から17世紀前半は石見銀山が繁栄し、その後18世紀になるとグアナファトが世界の銀供給の中心地となっています。確かに時代は少しずれていますが、いずれも銀を通じて東西の経済がつながっていたという点では、非常に興味深い共鳴関係があります。まさにグローバル経済の原型ともいえるのではないでしょうか。

JJが最近訪問したメキシコとベトナムホイアン)が、こんなところでつながるとは考えてもいませんでしたが、旅により疑問が生じ、そこから歴史や地理を探ってみるとあらたな発見があるものです。ところで、日本では東京「銀座」が有名ですが、東京「金座」はどこにあったかご存じですか?

 

最後まで読んで頂きありがとうございます。

ではまた。

 

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メキシコ:コロニアル都市(グアナファト・ケレタロ)と銀の道(その2)

(その1)では、メキシコシティからサンミゲル・デ・アジェンデ、更にグアナファトまでの道のりについて書いてきました。(その2)は、これ以降の話です。

 

グアナファト

銀山の街として発展したグアナファト

グアナファトは、周囲を山に囲まれた標高約2,000m(メキシコシティは約2,200m)に位置し、街の中心地(下記の地図で示した地域)は、ほぼ500m×500m程度の広さです。

 

16世紀半ばに銀鉱脈が発見されたことから、銀山の街として発展しました。しかし、18世紀には銀山の枯渇等で街は衰退に向かいます。その後、歴史的な建造物や景観が、再評価され1988年に世界遺産に登録され、観光都市として脚光を浴びています。

 

現在はグアナファト大学を中心に、文化的なイベントや芸術活動が盛んに行われているようです。日本からのスペイン語習得のための語学留学も多く、また、毎年開催される「グアナファト映画祭」は、ここ「グアナファト」と、(その1)で書いた「サン・ミゲル・デ・アジェンデ」の2都市で開催されている様です。

 

ホテルは地図右下のファレス劇場に近い「HOTEL SAN DIEGO」です。JJ達は、午後3時頃に、ホテルから少し離れた場所で、メキシコシティからここまで案内して下さいましたRさんから日本人のAさんに引き渡された(?)後、まずチェックインして、徒歩で市内観光を始めました。

グアナファトの観光スポットと宿泊先のホテル

観光ルートは、ホテルからスタートとして、反時計回りに、ファレス劇場→グアナファト大学→(YOSHIKIがピアノ演奏した)アロンディカ・デ・グラナディーダス広場→イダルゴ市場→ケーブルカーに乗ってピピラの丘という順でした。

 

その後、近場のお薦めレストラン(VAN GOGH RESTAURANT)を紹介してもらい、夕食を取りました。また、次の日の朝食は、ホテル近くのスタバで済ませました(地図上で青い●(丸)で示した場所にあります)。

 

各観光名所の情報は、ネット等に沢山出ていますので、そちらを見て頂けたらと思いますが、当方として想い出深い点は以下です。

アロンディガ博物館前の広場(地図左上)

この博物館に入った訳でもなく、ガイドブックにもそんなに詳しい説明が有る訳ではありませんが、Aさんから「ここ(アロンディガ博物館前の広場)で、数年前の国際映画祭の時にYOSHIKIがピアノを弾いたのよ」とやや感動気味に話されました。

 

「ああそうなんですか。こんなところまで招待されて来られているんですね。ところでYOSHIKIさん、今年は自分のクリスタルピアノをオークションで売られて、能登半島地震で被災した方々へ寄付させたようですよ」と言うと、「能登半島地震とは何ですか?」との問い。

 

「えっ こちらには伝わっていませんか?」という事で、状況を説明しました。東日本大震災のことは勿論知っておられましたが、能登半島地震の事は初めて聞いたとの事。

 

世界中で色々な災害や紛争が多発している中で、海外ではこの情報が流れていないのかも知れません。仮にテレビ等で放映されたとしても、単発的にさらっと流れただけで埋もれてしまったのかもしれません。日本人の方であれば一度耳に入れば「それは聞きました」程度の返事があっても良いのでは?と思いました。YOSHIKIさんの話で、この広場でそんなことを考えてしまいました。

YOSHIKIさんのピアノコンサートがあった広場

ピピラの丘

この丘から見える夜景が素晴らしいと言われています。確かに、大都会や港街に多く見られる夜景と違い、ネオンサインが「ほぼ無し」という状況で、家の明かりや外灯の光がみえるだけで、日中の外壁のカラフルさに比べ、非常にシンブルで清楚で優しい感じがしました。この昼夜の対比がまた良いのかも知れません。

ピピラの丘からの夜景(ネオンサインが無い)

坑道と公道

市街地には、昔銀採掘の坑道としてつくられた道が現在は公道(地下道)となっており、車も通り人も歩けます。地上の歴史的街並みを保存しつつ、車両の通行を地下に分散させるという独特の都市構造です。これらの特異性も含めて世界遺産に登録されたのではないでしょうか。

昔の銀の坑道 今は公道

ただ、なぜこれほど浅いところに坑道(地下道)があるのか少し疑問に思い、調べてみましたら、このあたりは坑道の出口が設けられた場所だということが分かりました。

 

鉱石の搬出には効率が求められたため、谷底や街の中心部に近い場所に出口、あるいは鉱石搬出用通路が設けられました。現在の地下道が浅く感じられるのは、まさにその出口付近の様です。イメージ的には下図のような感じです。銀鉱山としての遺跡がリアルに分かりました。

なぜ浅いところに坑道(地下道)があるのか

ケレタロ

次の日は「ケレタロ」という街に立ち寄りました。昨日の「サンミゲル・デ・アジェンデ」「グアナファト」と同様に、スペインの植民地時代に形成されたコロニアル都市です。

 

やはり、16世紀に銀鉱脈が発見され銀の産出によって発展しました。特に、1726年に完成したケレタロ水道橋は、銀山の開発に必要な水を供給するために建設されたようです。

 

今は日本の自動車メーカーや部品メーカーが数多く進出し、ここで生産した車をアメリカに輸出しており、工業都市として発展しています。

ケレタロの水道橋

銀はどこへ

さて、今回のメキシコ中央高原を廻り、気になったのは、いずれもスペインの植民地時代に銀の採掘や輸送基地として発展してきたという事でした。

 

しかし、当時採掘された銀をスペイン人はどこに運び、なにに使用したのでしょうか。日本にも「石見銀山」が世界遺産に登録されていますが、採掘の時期等は同じなのでしょうか? また、これもどこに運ばれ、なんの目的で使用されたのでしょうか? そんなことが気になりだして、「銀の道」を少し探ってみたくなりました。

 

最後まで読んで頂きありがとうございます。

「銀の道」の話は別途整理して、ブログに挙げたいと思います。

ではまた。

メキシコ:コロニアル都市(サンミゲル・デ・アジェンデ)と銀の道(その1)

 

コロニアル都市へ

2024年3月、メキシコに10泊11日で行き、その4~5日目にかけて、OPツアーで、首都メキシコシティから中世の雰囲気を残すスペイン風(スパニッシュ)コロニアル都市、「サンミゲルデ・デ・アジェンデ」「グアナファト」「ケレタロ」に1泊2日で行ってきました。

 

コロニアルとは、植民地や占領地に自国の建築様式やインテリアスタイルを導入した様式をいい、メキシコは16世紀から19世紀の初めまで、スペインの植民地でしたので、この国の様式で建てられた建物等が沢山残っています。

 

なおメキシコ旅行の全行程に関しては、過去記事の「メキシコ:Step1 団体旅行か個人旅行か」等を参照下さい。

メキシコシティからグアナファトへの道程

メキシコシティとグアナファトは約350km(東京~名古屋間程度)離れており、新幹線であればなんという距離でもないのでしょうが、当初どのようにしていくか迷いました(飛行機か? 車か?)。

 

結局、ネットで見つけたHISのオプショナルツアーに申し込み(一部経路を変更してもらい)、往路は途中でサンミゲル・デ・アジェンデに、復路はケレタロに立ち寄りながら全行程を車で走りました。渋滞にも巻き込まれ腰の痛くなるツアーでしたが、なんとかほぼ予定通りに終わりました。

高速道路で渋滞に巻き込まれ

出発当日、ホテルのロビーで待っているとどうも見たことがあるような人が・・・なんと昨日、別のOPツアー(テオティワカン遺跡観光)でドライバーをしていたRさんでした。昨日は現地ドライバーと日本人ガイドの2人によるツアーで、この時の運転手がRさん。今日から明日は、ドライバー兼ガイド(英語での説明)として来られたとのこと。

 

警察に現金を渡して

知った間柄なので直ぐに出発。まだ朝の時間も早く、順調に中心地を抜けて郊外へ。ところが急に「ウー、ウー」というどこかで聞き慣れた音が。メキシコのパトカーのサイレン音で、JJ達の車にストップの指示が。Rさんが一旦降りて警察と話していましたが少しして再出発。ただし警察車両が後をついてきます。何事か思うと、Rさんが道路脇のコンビニエンスストアに立ち寄り、キャッシュディスペンサーでお金をおろして、警察に渡していました。

 

後から聞いたのですか(英語なので良く判らないところもあるのですが)、我々が乗っている車は、Rさんがつい最近購入した新車で仮のナンバープレートをつけて走行中。この使用目的が問題となったような話でした。

 

後日調べたことですが、仮ナンバープレートは、特定の目的(例:車両の移動、検査など)にのみ使用が許可されており、それ以外の目的で使用することはできず、JJ達を乗せているのはおかしいと思われ捕まったのではないかと思います。

 

しかし、それで現金を渡して済まされるというのもメキシコらしく、Rさんいわく「日本で警察に現金を渡してそれで済むことはないでしょう。メキシコではよくあることで・・」とのこと。話には聞いたことはあるのですが、現場に遭遇したのは初めてでした。

 

サンミゲル・デ・アジェンデ

ピンクの大聖堂:サンミゲル教会

18~19世紀、メキシコ各地で採掘される銀(シルバー)の輸送路の中継地として栄えた街です。しかし銀採掘の衰退により中継地の役割が減り、さびれてしまいます。その後美術学校が新設され、国内外から生徒やアーティストが集まるようになり、街はアートと観光によって復活したとのこと。街全体がゆっくりとした坂の中腹にあり、2008年に世界文化遺産に登録されています。

 

JJ達は、街の中心部にあるサンミゲル教会付近を散策し、その近くで昼食をとっただけですが、それでも周辺の建物の壁は、ピンクやイエローで塗られ、これぞメキシコという雰囲気を醸し出しています。

スターバックスコーヒーも壁は黄色で

また、巨大人形「モヒガンガ」が街をゆっくりと散歩していましたが、これがまた全く違和感なく。

モヒガンガが街をお散歩

待ち合わせ場所を間違えて

「LA  STRENA  GORDA(太った人魚)」というやや変わった名前のレストランで昼食を済ませた後、Rさんより「自由に散歩して下さい。30分後に、この先の角を曲がったところに車を持ってきますので、そこで待っておいて」と言われ別れました。

店名の「太った人魚」の絵が掲げられた店内

しかし30分後に指定された(と思った)場所に行っても、Rさんも車も見当たりません。通りを間違えたのか、曲がる角を間違えたのか。それほど、離れている訳ではないので、焦りはありませんでしたが、こういう時やはり携帯電話は役立ちます。

 

JJはOPツアーに参加する場合、必ずガイドさんの携帯電話番号を聞いて、直ぐにそこにかけて繋がるかどうか確認する作業をします。今回もそれはしていました。

 

「目の前に小さい教会と学校がある」と言うと「そこで待っておいて、直ぐに迎えに行く」との返事。やはり、当方が曲がり角を間違えていた様でした。

 

これ以降は特にトラブルもなく無事グアナファトのホテルに到着。ここで一旦Rさんとは別れ、その後は、グアナファト在住の日本人ガイドに街を案内してもらいました。

 

タイトルに掲げた「銀の道」に関しては、このサンミゲル・デ・アジェンデにその形跡はほとんど残っていませんが、グアナファトやケレタロ(明日、立ち寄り予定)で採掘される銀の輸送路の中継地として栄えたスパニッシュコロニアル都市そのものが、銀の道の痕跡だと思います。

 

最後まで読んで頂きありがとうございます。

続きは、後日、(その2)で

 

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メキシコ:メキシコシティのホテル「シェラトン・マリア・イザベル」。由緒あるホテルですが、、、

 

マリア・イザベルとは誰?

2024年春にメキシコに行き、メキシコシティでは、シェラトン・マリア・イザベル・ホテル(https://www.marriott.com/ja/hotels/mexis-sheraton-mexico-city-maria-isabel-hotel/overview/)に3泊しました。

ホテル「シェラトン・マリア・イザベル」(正面左側)

なぜ「マリア・イザベル」という女性の名前がついているのか? 旅行前から気にはなっていましたが、所詮スペイン統治時代の女王「イザベル2世(ブルボン朝)」の関係ではなかろうかと勝手に思っていました。しかしこうしてブログを書くにあたって改めて調べてみると全く違っていました。経緯は以下のようでした。

 

このホテルはもともと、ボリビアの実業家アントノール・パティーニョによって1962年に建てられ、彼はこのホテルに、亡き娘「マリア・イザベル・パティーニョ・デ・ゴールドスミス」の名前を冠したとのこと。

 

マリア・イザベルはイギリスの資産家と駆け落ちし、妊娠中に17歳で命を落としたと言われています。父親であるパティーニョ氏は、娘の思い出を永遠に残すために、メキシコシティにこのホテルを建て、その名を「マリア・イザベル」としたようです。

 

ホテルは後にメキシコのホテル王セサル・バルサに買収され、1969年にはシェラトン・ホテルズに売却されました。以降、「シェラトン・マリア・イザベル・ホテル」として現在の名称に至っているとのこと。

 

随分由緒あるホテルの様です。もし行く前に調べておけば、もっと、ホテルのロビーや建築様式、装飾等を注意深く眺めたかもしれませんが、残念ながら後の祭りです。

 

ホテルランクに惑わされないように

ホテルランクは、旅行会社や予約サイト、出版社などが独自に決めるようで、この星数を信じるかどうかは個人の判断です。

 

このホテルも、業者によって4☆~5☆とランクは分かれていました。JJが手配を依頼した(株)エスティー・ワールドでは「老舗高級ホテルで5☆」。一方、ある有名なホテル予約サイトには「4☆のビジネス向けホテル」とありました。

 

ただ、シェラトンだし、それなりに備品等は備え付けてあるだろうと思い込んでしまっていました。しかし、部屋に入ると、スリッパなし、歯ブラシなし、バスローブなし と日本のビジネスホテルでも供えられているような備品もありません。しかもWi-Fiは有料との事で愕然としました。

 

スリッパが備え付けられていないという話は良く聞きますが、この様な備品、流石に4☆~5☆ならあるだろうと思い込んでしまっていた自分も反省させられました。

また、部屋が狭く、スーツケースを開くスペースもありませんでした。客室の広さは、客室タイプによって異なるとは思いますが、それでも海外旅行者向けには、スイートルームでなくてもスーツケースを開く程度の面積は欲しいところです(ビックリだらけで、部屋の写真をとることもすっかり忘れていました)。

 

JJの勝手な記憶ですが、老舗ホテルでは設備は多少古くても、部屋面積はある程度確保されているものが多いと思っていましたが、ここはそうではありませんでした。当たり前の事かも知れませんが、事前にしっかりと調べておくことが必要ですね。

 

ホテル選定は目的を良く考えて

ホテルはメイン通りの「レフォルマ通り」に面しており、近くに独立記念塔もあり、地下鉄1号線を利用しての市内観光には便利と思われました。ホテルランクも4☆~5☆であり、レストランやコンビニも徒歩圏内に沢山あり、そんな理由でここを選びました。

独立記念塔(当日は何かのお祭りで歩行者天国となっていました)

ただ、利用予定の地下鉄はストップしており、この目論見は全く外れました。

しかし、ホテル前の通りは、バス1号線として、次々とバスがきて、国立人類学博物館やシウダテラ民芸品市場に行くには、地下鉄より便利でこれはラッキーでした。但し、バスに乗ることを想定しておらず、この顛末に関しては、「メキシコ:メキシコシティの路線バスに乗ってみた」に書いていますので、宜しければ、そちらも読んで下さい。

 

なお、ホテルでは、朝食も夕食も一切取りませんでした。夕食は近くのメキシコ料理店、ウルグアイ料理店、日本料理店と日々違う店に入りました。

 

朝食も、近くのコンビニで、サンドイッチ・ヨーグルト・飲み物等を調達しました。OPツアー(2件)の出発時刻がいずれも朝早く、ホテルでゆっくりと朝食を取る時間もなさそうなでしたので。一方、全くフリーの日は、ホテル近くの店で、ゆっくりブランチしました。従ってこのホテルの食事がどうだったのかは全く不明です。

 

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当方の下調べが不十分で、残念だった点を多く書いてきましたが、スタッフの方々の対応は素晴らしく、地下鉄ストップの状況確認や代替バス乗り場の案内等は丁寧に対応して頂き、感謝しています。

 

ホテルライフを楽しむというより、あるホテルを拠点として、あちこちで掛けるというのであれば、老舗高級ホテルでなくても、もっと設備や備品が整い、Wi-Fi無料な機能的なホテルでも、良いような気がしました。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

ではまた。

 

 

jj-travel.hateblo.jp

 

フィリピン:ボホール島 見どころ盛沢山なオプショナルツアーに出かけて

2025年6月にセブ島に行き、そこからボホール島のオプショナルツアー(OPツアー)に出かけた時の話です。

ボホール島は、セブ島の南東にあり、セブ港から船で2時間程度かかります。この島は「チョコレートヒルズ」と、世界最小のメガネ猿「ターシャ」で有名で、昔から是非一度見てみたいと思っていました。今回、セブ島滞在中に、HISのOPツアーを利用して、日帰りで行ってきました。

 

全体のスケジュール

スケジュールはかなりハードで、朝6時過ぎにホテルを出発し、21頃ホテルに帰る予定となっています。

ボホール島 ツアースケジュール

ボホール港(正式にはタグビララン港)から、一番離れているのが、チョコレートヒルズです。従って、その途中で「血盟同盟記念碑」と「バクラヨン教会」に寄り、昼食は船上で取り(リバークルーズランチ)、その後、メガネ猿をみて、最後にチョコレートヒルズを見学し、あとはひたすらボホール港に向かって帰るというようなイメージです。

 

血盟同盟記念碑とバクラヨン教会

歴史的な経緯も背景も良く判りませんが「スペイン総監とボホールの首長との間で交わされた同盟の記念碑」を見学し(10分程度)、その後、フィリピンで一番古い教会の一つと言われている「バクラヨン協会」を訪ねました(20分程度)。すみませんが、JJとしては、いずれもそれほど興味をそそられる場所ではありませんでした。

 

リバークルーズランチ

ロボク川のクルーズと船上ランチということで、写真の様なイメージです。南国風(ややジャングル風)ではありますが、残念ながら、ここもJJとしてはどうでも良いかな~というような感じでした。料理は美味しかったです。

リバークルーズランチ

メガネ猿

絶滅危惧種の世界最小のメガネ猿ということで、保護区の中で見ることが出来ます。その入り口では、世界最大ではないか(?)と思われるメガネ猿が出迎えてくれます。

世界最大のメガネ猿??

雨が降っていたこともあり、葉っぱの下で雨宿りしているお猿さんを、所々で見ることができました。やはり目が異様に大きいですね。

世界最小のメガネ猿(これは本物)

チョコレートヒル

今回のツアーで一番見たかった場所です。

 

円錐状の丘が1,000個以上も密集し、乾季にはこの丘の草が枯れチョコレート色に染まることより「チョコレートヒルズ」と呼ばれている様です。訪問時は既に新芽が出ていました。

 

なぜ、この様な丘が出来たかは所説あるようですが、自然が作り出す造形は、神秘さも然ることながら、人に安らぎを与えてくれるような気がします。

 

一方で、チョコレートヒルズ全体が自然保護地区となっており、基本この中に人は住んでおらず、一旦迷い込むと二度と出られないような怖さも感じます。

 

やはり、こんな思いは、写真でなく、現地でないと感じられないのではないでしょうか。

神秘さと怖さも秘めたチョコレートヒル

行き帰りのフェリー

今回は「オーシャンジェット」という船会社の便が予約されていました。

 

普通席の船内は写真の通り、さながら飛行機のエコノミークラスのようなイメージです。今回、成田から乗ったユナイテッド航空のエコノミークラスを思い出しました。シート幅も、前席との間隔も狭く、片道2時間は少ししんどかったです。帰宅後調べると「ビジネスシート」というものがあるようで、それほど割増運賃を払わず利用できそうでしたので、これにしておけば良かったと少し悔やみました。

オーシャンジェットの船内(エコノミークラス)

また、特に帰り便の船内温度が低く(クーラーの設定温度が低すぎ)、JJはユニクロのダウンを着込んで2時間凌ぎました。インドに行ったときの失敗から、ダウンは常に持ち歩くようにしており、「今回は勉強したなあ~」と自分自身をほめてあげました。シャングリラホテルに関するブログでも書きましたが、この温度の低さ、特にインドや東南アジアを旅行する時の留意事項です。

寒くて長時間の船旅に疲れて、セブ港に帰着

全体の感想

早朝から夜遅くまでのツアーで、JJにとってはかなりハードで内容でしたが、予定通りに進み、現地(ボホール島)のガイドさんも親切でした。チョコレートヒルズにも感動し、ツアーに申し込んで良かったと思います。

 

ただ、行き帰りに相当の時間を取られるので仕方ない事かも知れませんが、朝6時過ぎの出発ですとホテルで朝食を取ることも出来ません(シャングリラホテル近くにコンビニもありませんので前夜に準備しておくことも出来ません)。また、21頃ホテル帰着となると、ホテルレストランは、ほぼ終了の時間です(JJ達は21時30分過ぎまで、ご厚意により利用させてもらいましたが・・・)。

 

このOPツアー、見どころ盛沢山は、ある人にとっては良いのかも知れませんが、JJは「血盟同盟記念碑」「バクラヨン教会」「リバークルーズランチ」は省いても、もう少し早めの便でホテルに戻ってゆっくりと食事をしたかったです。フェリーの便数は多いようですので、出来れば15時過ぎのボホール島発便にしたかったというのが正直なところです。

 

この辺りも、かなり融通の利く他社のOPツアーもあるようですので、検討の余地有です。ただ、今回は送迎等に全く問題もなく、チョコレートヒルズも見れて、いいOPツアーでした。

 

最後まで読んで頂きありがとうございます。

ではまた

フィリピン:セブ島 ショッピングセンターへの行き帰りに疲れ

 

2025年6月にセブ島に行った時の話です。

 

5日間の日程の中で、フリーの日は、2日目か4日目しかなく、お土産購入のためにショッピングセンター(SC)にいつ行くか迷いましたが、妻とも相談の上、4日目はゆっくりしたいとの事で、到着早々に街中に出かけました。

 

JJは海外に出かけ、その国の「市場」に行くのは好きなのですが、どうもSCに行く気にはなりません。ハワイもグアムもそうですが、極端な言い方をすればSCにはどこの国にでもあるブランド品があるだけで、そこに行っても、その国(土地)の生活や風俗をあまり感じることが出来ませんので、どうも興味がわかないのです。

 

ただ、フィリピンのお土産(主に妻の職場や知人用)を購入するには、SCに行くのが良いともガイドブック等には書いてあり、出かけることにしました。

 

セブではSCは「セブ島」にあり、リゾートホテルが立ち並ぶのは「マクタン島」で、宿泊したシャングリラホテルもマクタン島にあります。位置関係は、下図の通りで、2つの橋(図中①と②)で結ばれています。

SCがあるセブ島と、ホテルがあるマクタン島

行きは良いヨぃ、帰りはコワい

シャングリラホテルから各SCまではかなりの距離があり、渋滞すると車で1時間程度かかるようでもあり(特に2本しかない橋が混むとの事で)、タクシーに乗るとどのくらいの運賃になるかも良く判らず、出来たらシャングリラホテルとSC間を走っているシャトルバス(Mall Shuttle Service)を利用したいと考えていました。

 

ただ、当日は既にバスは出発済みで(1日1便しかありません)、行きはタクシー、帰りのみシャトルバス利用としました。

 

下の写真が、パンフレットに載っていたシャトルバスの時刻表で、これでみると、行きは1)SMシティセブ(SMシティモール)、2)アヤラセンターセブ、3)SMシーサイド(SMシーサイドシティセブ)の順で、帰りはこの逆です。ホテルから一番近いのが、SMシティセブです。スーパーマーケットもある様なのでここに行くこととしました。

シャトルバス 時刻表

予約制となっているとのことで「SMシティセブ 2:45pm 発」をフロントで予約してもらいましたが、さてSCのどこから乗車すれば良いのや。

 

ホテル等であれば、玄関付近で待っていれば良いと思いますが、広大なSCではこの辺りを事前に確認しておかないと乗車は難しいと思いました。これをフロントに聞いたのですが、どうも良く判りません。結局、下の写真の上側にあるメモ書きを頂き、「これをSCの警備員さん等に見せたらわかるので」ということでした。

行きのタクシーは、ホテルの警備員(ドアボーイ?)に呼んで頂き直ぐにきました。

乗車時に上の写真の下側にあるような紙(タクシーNo等を記載した紙)を渡されます。日本語でも書いてありますが「タクシーに物忘れをした際にこれを提示する」ための物らしいです。

 

お土産屋さんとスーパーマーケットを駆け足で回り

当日はSCに着いて、早々にバス乗り場がどこにあるか聞きました。「5番出口の右側にバスターミナルがあるので、その付近で待っておいたら良い」と言われ、まずはこの場所を確認して、ショッピングを開始しました。

 

このモールの詳細や攻略法(?)に関しては、色々な記事がNETで出ていますので、そちらを参照下さい。JJ達は、そんな事前情報も確認せず、時間があまりなかったこともあり、主に地上1階の「Kultura」というお土産さんと、地下1階のスーパーマーケットをウロウロして、そこで買い物してそれで終わりました。位置関係は下図の通りです。

1階の「Kultura」という店は「ユニクロ」の隣にあり、そこでクッキー、オタップ等を購入しました。ブログに載せるならお店の写真等も撮っておいた方が良いのでしょうが、そんなところまで気が回っていないというところです。すみませんが、この店の情報もNETでは沢山載っていますので、そちらを参照下さい。

また、地下1階のスーパーマーケットでは、UBE PIAYA、ドライマンゴー等を購入しました。

バスは何処で乗れるの?

さて買い物も終え、バス乗り場に向かいました。バスはカラフルな色とは聞いていましたが{先ほど購入した「セブストーリークッキー」缶のようなイメージのバス(所謂ジプニー)を思い描いていましたが}、どの乗り場に着くのかはわからず、近くの人に「シャングリラ行きのバスに乗りたいのだけど、どこで待てば良いの?」と聞いても、「ここだ」と言うだけで、具体的にバス停の番号を教えてくれるような人はいませんでした。

 

これはもう「ここで来るのを待って見つけるしかないな」と思い、このバス停に入ってくるバスを見続けました。するとに「SHANGRI-LA」と表示したホワイトボディの奇麗なマイクロバスが入ってきましたので(ホテルの説明と全然違うじゃないの!)、手をあげてとめました。運転手に名前や部屋番号を確認されやっと乗車させて頂きました。

SCに併設されたバス乗り場

ヤレヤレ。

 

下の写真は帰りのバスの車窓から撮ったものです。地図で2本ある橋の①を通過中に②の方向を眺めたものです。右がセブ島(SC側)、左がマクタン島(ホテル側)です。海峡に接して想像以上に、工場や倉庫、石油タンクが立ち並んでいました。その先は、セブ港です。セブは観光地としての顔だけでなく、経済・物流のハブとしての側面も持っているようですが、リゾート地に来てこんな眺めは見たくないなあ~とも思い、海の汚れは大丈夫だろうかとも気になりました。こんな至らぬ心配もヤレヤレです。

右がセブ島、左がマクタン島。工場や倉庫等で一杯

なんだか、リゾートでゆっくりしたいとの思いと裏腹に、SCへの行き帰りだけで疲れた一日となりました。

 

最後まで読んで頂きありがとうございます。

ではまた

 

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