過去記事「メキシコ:コロニアル都市と銀の道(その1)(その2)」で紹介しましたメキシコ中央高原のサンミゲルデ・デ・アジェンデ、グアナファト、ケレタロは、いずれもスペイン植民地時代に銀の採掘や輸送中継地として発展してきたという点で共通しています。
ところで、当時採掘された銀をスペイン人はどこに運び、なにに使用したのでしょうか? また日本にも石見銀山が世界遺産に登録されていますが、これはどうなのでしょうか?
「当時、銀が貨幣として使用されていたのだろう」程度はぼんやりとは思っていましたが、具体的にどんな物の支払いに使用されたのかが気になり、それぞれの銀の道を少し探ってみました。
いつ頃栄えたの
下表はメキシコ(グアナファト)と日本(石見銀山)の、採掘時期を比較したものです。なお、メキシコの宗主国である「スペイン」と、当時は「中国」抜きでは銀の流通ルートは語れないようですので、「中国」も表に入れています。
グアナファト銀山は、16世紀半ばに採掘が始まり、最盛期は18世紀だと言われています。一方、石見銀山も採掘開始時期は、グアナファト銀山とほぼ同じころですが、最盛期は短く17世紀前半までです。

スペイン
まず、当時のスペインの国内状況をもう少し詳しく見てみます。上表を参照ください。
16~17世紀は、スペイン帝国全盛期の時代で、メキシコもスペインの植民地でした。当時はハプスブルク家(スペイン/ハプスブルク家)が統治していました。
18世紀はスペイン継承戦争により、ブルボン家(フランス)がハプスブルク家からスペインの王冠を奪い取った時代です。だだ、メキシコが植民地であったことに変わりはありません。この時代の国王としては、ルイ14世(太陽王)の血を引く、カルロス3、4世があげられます。ただ、この時代から国力は衰退していきます。
話は少し横にそれますが、ハプスブルク家といえば、いつも、下図左側の「軍服姿のフェリペ皇太子(後のフェリペ2世)」と、右側の「ラス・メニーナス」の絵画を思い出します。「ラス・メニーナス」の画面中央やや左奥の鏡の中にフェリペ4世と王妃マリアナが写っています。
JJとして、これらの作品の素晴らしさを上手く表現することはできませんが、いずれもくすんだ背景の中に、贅を尽くした甲冑や衣装が映えており、これらはメキシコから搾取した銀がもたらした贅沢品の一つと考えられます。

グラナファトの銀はどこへ運ばれ、何に使われたか
16~17世紀、採掘された銀は勿論スペイン本国へ運ばれていました。一方で、太平洋を渡って、フィリンピン(マニラ)まで運ばれ、中国との貿易に使用されていたようです。イメージ的に下図の通りです。

スペインに渡った銀は、ここで硬貨に鋳造され、当時は事実上の世界通貨として、ヨーロッパ、アジア等で流通していたとのこと。銀はスペイン王室の歳入の柱であり、軍備や戦費、また宮廷の豪華な生活や贅沢品にも使用されたようです。
更にスペインは、メキシコの太平洋側の都市(アカプルコ)から、フィリピンに銀を送り、ここで、中国商人が本土から持ってきた絹や陶磁器を買い付けていたようです。余談ですが、フィリピンも当時スペインの植民地であり、国名のフィリピンもスペイン国王「フェリペ」からきています。
18世紀にはいると、国王がハプスブルク家からブルボン家に変わりますが、銀の流れに大きな変化はなかったようです。ただ、ハプスブルク家が軍事費や贅沢品に使用したのに対し、ブルボン家は軍事基地の建設や植民地の都市整備・経済の活性化に使用したようです。それでも、周辺諸国に比べ国力は衰えていき、グアナファト鉱山の採掘量も減っていったようです。

石見の銀はどこに運ばれ、何に使われたか
前掲の比較表を見て頂ければわかりやすいかと思いますが、16世紀後半は日本の戦国時代(安土桃山時代)で鉄砲の需要が非常に高く、長崎や平戸を通じて、日本とポルトガル、スペインの間で取引(銀での支払い)が行われていました。
また、特にポルトガル人は、中国で絹や陶磁器を仕入れ、これを日本に運び、銀と交換し、この銀で更に絹や陶磁器を購入するという三角貿易もしていたようで、これらは南蛮貿易と呼ばれています。この時代も石見銀山から採掘された銀が重宝されたようです。
17世紀に入っても南蛮貿易は続いていたようですが、とくに江戸幕府から与えられた朱印状を持った西国の大名や京都、堺、長崎などの商人が,東南アジアなどへ船を出して行った貿易の方が活発となり、これは朱印船貿易と呼ばれています。
この朱印船貿易における東南アジアの拠点の一つがベトナムのホイアンです。この時の物の流れと銀の流れのイメージ図は下図の通りです。

ベトナムのホイアンには、JJも2024年に行き、過去に「ベトナム:ホイアン 日本人街から中国人街へ、そして今は韓国人街?」というタイトルで投稿しました。しかし、当時、日本人はどんな商売をしていたのかあまり考えていませんでしたが、改めて調べてみると、日本商人はホイアンで銀を使い、中国商人からは絹や陶器を購入し、西洋商人からは武器や火薬を購入して、日本に運んでいたようです。これで、石見銀山の採掘も最盛期に入ったようです。
しかし、その後、江戸幕府の鎖国令により朱印船貿易も廃止され、また、銀鉱脈も徐々に枯渇し、石見銀山も衰退していったようです。

二つの銀山の共鳴関係
メキシコの銀山と日本の銀山を概括してきました。
これら二つの銀山の最盛期は多少前後し、16世紀後半から17世紀前半は石見銀山が繁栄し、その後18世紀になるとグアナファトが世界の銀供給の中心地となっています。確かに時代は少しずれていますが、いずれも銀を通じて東西の経済がつながっていたという点では、非常に興味深い共鳴関係があります。まさにグローバル経済の原型ともいえるのではないでしょうか。
JJが最近訪問したメキシコとベトナム(ホイアン)が、こんなところでつながるとは考えてもいませんでしたが、旅により疑問が生じ、そこから歴史や地理を探ってみるとあらたな発見があるものです。ところで、日本では東京「銀座」が有名ですが、東京「金座」はどこにあったかご存じですか?
最後まで読んで頂きありがとうございます。
ではまた。