JJ(爺)の海外個人旅行記

英語力もスマホ術も不安な70歳超えの爺。それでも海外個人旅行は人生を楽しく、豊かにしてくれます。そんな実体験を綴っています。

はじめまして

 

はじめまして。70歳超えのJJ(ジージ)です。よろしく。

特にシニアの方で海外個人旅行をしたいと思っている人に読んで頂けたら嬉しいです。若い世代(特にZ世代)の方々にも参考になれば、尚更ハッピーです。

  • 海外旅行に行きたいけど、団体旅行はどうも若い向け人のようで、移動が多く、ゆっくりしていない。
  • シニア向けの団体旅行もあるが、観光地、食事もセットされており、自分で考えることはほとんどなさそうだ。また、ホテルも飛行機もハイクラスで費用も高い。
  • かといって、個人旅行を企画するのは、面倒だし、不安だし、費用も含めて良く判らない。
  • こんな方で、自由度が高く、ワクワク感のある海外個人旅行を、楽に、またリーズナブルに計画、実行したいと考えておられる方

そんな方に、海外赴任経験もなく、英語力もスマホ術も不安な70歳超えのJJ(ジージ=爺)の海外個人旅行記(旅行準備内容や現地でのトラブル、感動など)を、ゆったりと発信していきたいと思います。

 

読んで頂く中で、個人の海外旅行は歳をとっても可能だし、その結果として、気力や体力も活性化され、なんだか人生、豊かで楽しくなりそうだなあ~ とそんな気分になって頂ければ幸いです。


なぜ海外個人旅行なの?

最大の理由は、定年退職直後に計画していたヨルダンへの団体旅行が、直前になって催行中止となり、急遽他社で個人旅行の手配をして、なんとか当初のスケジュールで行くことができ、この時の経験がやはり海外個人旅行は楽しいと思ったことが一番の理由です。

 

海外個人旅行でしたので、言葉も通じにくく、また、自由行動時や飛行機乗り換え時等に小さなトラブルもありましたが、それにも増して、現地案内人の方とお互いカタコトの日本語/英語で話が弾み、また、計画変更等の要望にも適宜対応して頂き(例えば観光コースにない路地裏に案内してもらい現地の生活実態を垣間見たりして)、有名観光地の思い出より、むしろ多少のトラブルや計画外の行程が、旅行後強く印象に残りました。

 

国内個人旅行でも、楽しみは同じでしょう。ただ違うのは、旅行先で言葉が通じ、トラブル時等での日本人としての行動や反応はほぼ予想がつきます。風景も旅館の食事も似たり寄ったりと、海外旅行に比べて苦労や感動がやや少ない様に思います。多少の骨折りやそれなりの刺激があった方が、旅はより面白く、前頭葉の活性化には良いのではないでしょうか。

 

団体旅行と違い、個人旅行というと若者の「バックパッカー」の様な、あるいは「自分で飛行機からホテルまで予約する必要がある」というようなイメージをされる方も多いかと思いますが、JJはそんな面倒なことは基本的にしません。

 

このブログで、まずは「海外個人旅行は、そんなに難しい旅ではなく、歳をとっても行けそうだ。何とかなりそうだ。なんだか楽しそうだなあ~」そんなこと思っていただけたら嬉しいです。

個人旅行が楽しいと思ったヨルダン(ペトラ遺跡

シニアの海外個人旅行は一石二鳥?

老後を迎えると、一般的に気力がなくなり体力も衰えます。持病を抱えている人も多く、資産の目減りが気にかかり、理由が自分でも判らないままイライラすることもあります。

 

JJも、大学卒業後、同じ会社で約50年間働いてきましたが、70歳で全く仕事から離れると、「これ」と言った趣味もなく、時間を持て余し、老化の一般的症状にプラスして、気持ちも大いに落ち込んでしまいました。

 

そんな時、これからの人生に向けての本を読んだり、友達の話を聞いたり、残りの人生でやってみたいことを少し考えたりしました。

 

結果、「これからは好きなことをして、その副次効果として気力や体力の維持につながれば一石二鳥ではなかろうか。楽しみも二倍に増えるかもね」と思う様になりました。

 

JJにとっての“一石”、それは「海外個人旅行」でした。”二鳥”は取ってつけた感はありますが、「気力:脳機能の活性化」と「体力:身体機能の活性化」です。これらをまとめて「脳体機能の活性化」と呼ぶことにしました。

 

個人旅行ですと、それなりの下調べや手配(旅行会社との遣り取り)も必要です。現地では身振り手振りでの表現力(意思伝達力)もいります。病気やトラブル発生時、アクションを取らないと何も進みません。また、終日観光ともなればよく歩きます。これらは、すべて脳体機能の活性化に良いのではないかと思います。

 

また、ブログをやってみようと思ったのも、「情報受信」より「情報発信」の方が、遥かに前頭葉を使うと書いてある本を読んだからです。

 

若い世代(特にZ世代)の方に

少し横道にそれますが、日経新聞の2024年9月17日の朝刊に「日本人は旅行をやめたのか」という特集があり、そのなかでのアンケート結果として「Z世代の57.3%は海外に行きたいと思わない」との記載がありました。

 

JJは約50年前の大学時代、アルバイト代と親にムリクリ頼んで出してもらったお金で、ヨーロッパ旅行に行きました。どうしても、普通のサラリーマンになる前に、海外をこの目で見て、肌で感じてみたかったのです。この鮮烈な記憶は今でも残っています。

約50年前(JJの学生時代)の海外旅行集合写真

Z世代は、生まれた時から、インターネットやスマホがあり、情報収集や海外でのコミニケションにも困らず、それほど個人旅行のハードルも高くないと思います。このグローバルな時代、海外を直に感じることは、必ずや、これからの人生にとって有用だと思いますので、是非海外に飛び出してみて下さい。英語力、スマホ術も不安な70歳超えのJJでもトライし、都度新鮮な刺激を受けていますので。

 

今後、旅行前の準備、旅行中のトラブルや感動、具体的なトライ例等をゆっくりと投稿していく予定です。ブログ自体初めてで、悪戦苦闘中という状況ですし、内容も「JJの人生後半の旅路の記録」的なところがありますが、どうぞよろしくお願いいたします。

 

なお、この「はじめまして」投稿以降、2025年5月20日までに記事とした訪問国に関しては、一覧を下記に載せていますので、宜しければ参照下さい。

 

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最後まで読んで頂きありがとうございます。

ではまた。

 

メキシコ:カンクンの路線バスに乗ってみた

今回は、路線バス乗車の話です。ボオーとしていた時間が多く、写真をほとんど撮っていませんが、AIに助けて頂きました。ご了承ください。

 

カンクンのリゾートホテルはカリブ海に面して、細長く分布しており、JJ達は、「ハイアットジラーラ・カンクーン」というホテルに宿泊しました。一方、商店街があるセントロ(中心部)は、ホテルゾーンからは少し離れています(下図参照下さい)。

ホテルゾーンとセントロの位置

2024年3月の滞在中ずっとカリブ海の波が高く、海で泳ぐことも出来ず、途中で商店街散策、スーパーマーケット周りを兼ねてセントロに出かけました。

 

ただ、セントロもこぢんまりと纏まっている訳ではなく、街をウロウロするには暑すぎ、結局、ウォールマートに立ち寄った時間が最も長く、そこでお土産を調達して、早々にホテルに帰り、プールに浸かりました。

 

ホテルからセントロまで、タクシーで行っても良いのですが、メキシコシティで路線バスに乗って度胸がついたのか「ここでもバスで大丈夫じゃない」とホテル前からバス利用としました。

道路からみたホテルゾーン

それでも一応、帰りのことも考えて、バスのルートNoを確認しました。確か、バスにR1とR2の表示があればどちらでも良かったような? また運賃も調べ、12ペソ(あるいは1米ドル)の均一運賃であることも判りました。

 

バスは赤い車体で、次々にやってきます。そういえばメキシコシティの路線バスも赤い車体でした。情熱的な色がやはり好まれるのでしょうか。

 

多分ここが停留所だろうと思われるところで待って、手を挙げると止まってくれました。このバスの写真を撮り損ねたのが悔やまれますが、記憶の中では、下図のようなイメージです。

路線バスとバスチケット

お釣りの無いように運賃を手渡すと写真右のようなチケットをくれました。ただ、帰りのバスでは、このチケットの発行がなく、現金とチケットの発行枚数が合致するのか気になるところではありましたが。

 

バスにクーラーなどなく窓は開けはなたれ、乗客の髪は乱れ、運転手の好みと思われる音楽が大音量で流れていました。窓も心も開放的。

バスにクーラーなどは無く、窓は開け放れたまま

メキシコ的だなあ~とボオーとバスに揺られていましたら、途中のバス停から、サックス奏者がバスに乗り込んできました。バスの運転手は、それまで「うるさいなあ・・・」と思われた音楽をビシッと止め、代わりに奏者が情熱的な演奏を始めました。もちろんチップをお願いしながら運行中のバスの中を廻ります。演奏し続けながら2~3の停留所を過ぎると、奏者は下車し、また運転手好みの爆音が車内に響き渡りました。

 

これも驚きと感動で写真を撮るのもすっかり忘れてしまいましたが、その場の空気感は今でも鮮明に思い出せます。イメージ的には下図の通りです(この画像も、実際の写真ではなく、当時の情景を再現するためにAIで生成したイメージです)。

バスの中で演奏するサックス奏者

さすがにメキシコ。日本のバスでこんな事をしたら、即「厳重注意」などのお叱りを受けそうですが、このバス乗車でもいい経験をさせていただきました。タクシーを利用していたらこんなことに遭遇することもなかったでしょうし。

 

今回は、メキシコシティの場合とは違い、バスの乗り降りとも全く問題なく、無事セントロまで行って、お土産を買ってホテルに帰りました。慣れたのか、度胸が付いたのか、たまたまそうだったのか???

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

ではまた。

 

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メキシコ:カンクン「ハイアット・ジラーラ・カンクン」。ラテンアメリカらしさを少し感じて。

2024年春のメキシコ旅行11日間に関し、行程前半のメキシコシティに関しては「ピラミッド」や「料理」の話を、中間のグアナファトに関しては「銀」の話を過去投稿しました。

今回は旅後半のカンクン滞在中の話を2~3回に渡って投稿予定です。まずは、リゾートホテルから。

 

メキシコ旅行6~9日目にかけて、リゾートホテル「ハイアット・ジラーラ・カンクン(https://www.hyatt.com/ja-JP/hotel/mexico/hyatt-zilara-cancun/cunia)」に宿泊しました。客室は約300室あり、大人限定、全室オーシャンビュー、オールインクルーシブの 5 ☆ホテルです。日本語の話せるスタッフさんが常駐されており何かと助かりました。玄関に立つと正面に見えるカリブ海の風がロビーを抜け、とても爽やかでした。

ホテルロビー:カリブ海の風が通り抜け爽やか

客室

部屋は無料でランクアップ(高層階)にして頂きました。部屋面積も広く、海も良く見え素敵でした。

客室からの眺め:青い海、白い砂浜と 遠目では素敵です。

ビーチ側からホテル棟を望む

室内は写真に見られるように窓際にジャグジーがありますが、部屋との仕切りが何もなく、こんな所にお湯をはったら、蒸気で部屋が熱帯空間となりそうです。新婚さんなら楽しいかもしれませんが、流石にJJ達はこのジャグジーは一度も使用しませんでした。入口近くに別途シャワー室がありましたので。

室内:窓側にジャグジーがありますが・・・・

ビーチ・プール

3日間を通して、ホテル前の海の波が高く、プライベートビーチで泳いでいる人はほとんどいませんでした。カンクン周辺では、雨季(5月から10月)には海が荒れることが多く、波が高くなる傾向があり、乾季(11月から4月)は比較的穏やかで泳ぎやすい時期とされています。

ビーチ:波が高く泳げません(果敢に挑んでいる人もいますが・・)

JJは3月に行ったので、比較的穏やかな時期だったのでしょうが、それでも海に入ると波にさらわれそうで、ほんの少しの時間浸かったという程度で諦めました。海が穏やかな時期というのが本当にあるのか不思議なくらいでした。

 

その為かプールサイドに人があふれ、ホテルとしてやや規模が大きい割にプールが小さく(狭く)、プールサイドチェアーは常に満杯で座れる場所もありませんでした。海が荒れていたことも含めて、これは少し残念でした。

プール:プールに入っている人は少ないのですが、サイドチェアーは人で一杯でした

食事

このホテルは、宿泊料金に食事や飲み物など基本的な料金が含まれている宿泊プラン(オールインクルーシブ)ですので、滞在中に追加料金を気にせずに過ごせることがメリットです。

 

レストランは全部で5~6カ所ありました。朝食・ランチ・ディナーとして利用できるPunta Vista(シーフードレストラン)、Spice(ビュッフェ)。ディナーのみのMaria Marie(メキシカン)、Asiana(アジア料理・鉄板焼き)等です。

 

滞在中、全てのレストランを利用したわけではありませんが、Asiana(アジア料理・鉄板焼き)を除き、その他はいずれも美味しかったです。メキシコに行ってわざわざアジア料理を食べなくても良いと思いますが、メキシコシティで食べた日本料理(KOKU)が美味しくて、「ここもひょっとしたら(!)」と期待して行ったのが少し間違いだったような気がします。

Punta Vista(シーフードレストラン)での朝食

Maria Marie(メキシコ料理):料理も美味しく、店員さんも明るく

全体の雰囲気

大人限定ということで、もう少し閑静なホテルかと思っていましたが、毎夜、開催されるショーを見ながらの飲食会場(1階ロビー)は、まるで日本の温泉旅館の大宴会場の様な雰囲気でした。アメリカからの旅行客が多いようで、陽気さと騒がしさが混沌としたような状況でした。

 

アメリカに近いので、まあこんなものなのかなあ~とも思いましたが、全体的には当方が描いていたイメージ(落ち着きのあるリゾートホテル)とはかなり異なりました。

まあ、ラテンアメリカなのでこういう事もあるでしょう。

1階ロビー:毎夜開かれる何かしらのイベント

 

今回の旅では、メキシコシティのホテルで少しガッカリし、メキシコ国際空港エアポートホテルでは予約が入っていなくアタフタし、カンクンは当方が描いていたリゾートホテルのイメージと違う 等いろいろありましたが(期待が大きすぎたのかも)、まあそれはそれで良い経験をさせてもらったのかも知れません。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

次回は、「カンクンで路線バスに乗ってみた」という話を書こうと思っています。

ではまた。

 

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ヨルダン:ペトラ遺跡からインディ・ジョーンズに飛んで、更に飛んで(その2)

今回、こうしてヨルダンの回想録的な記事を書いていて、何が最も印象に残っているかと思いを巡らすと、やはりあの渓谷や砂漠の情景で、それは聖書と結び付けられたものでした。

そんなこともあり、改めてインディ・ジョーンズを取っ掛かりに、この辺りを少し書いてみたいと思ったのが正直なところです。

 

聖杯

さて、前回(その1)は、シリーズ第1話の「聖櫃」の方に話が飛んでしまいました。今回(その2)は、そもそも、興味をそそられたシリーズ第3話の「聖杯」に関して書こうかと思い、何かストーリー性のある話でもあるのだろうかと調べてみましたが、これがなかなかありません。

聖杯:もちろんこれも実物ではありません。AIに描いてもらいました

聖杯とは、イエス・キリストが、最後の晩餐で用いたと言われている杯、あるいは十字架にかけられたキリストの血を受けた器、という伝承だけで、聖櫃の様に、旧約聖書の中に出てくる類のものではありません。

 

最後の晩餐に関しては、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画が有名ですが、ここに聖杯は描かれていませんし。

レオナルド・ダ・ヴィンチ:最後の晩餐

ただ、伝説、伝承としても、聖杯の起源は、最後の晩餐や磔刑が行われた、西暦30年頃、場所はエルサレムです。聖杯とヨルダンを直接結びつけるような話が見つかりませので、次はエルサレムに飛んでみたいと思います。

 

エルサレム

エルサレムが、ユダヤ教キリスト教イスラム教の聖地であることは知っていました。しかし、正確な場所がどこなのか、恥ずかしながらこのブログを書くまで地図上で指し示すことができませんでした。

 

多分、死ぬまでにそこに行く機会は無いと思われ、せめてヨルダン側から見るとどのあたりあったのだろうかと思い地図で確認しました。

 

するとなんと、宿泊した死海のホテル(クラウンプラザ・ヨルダンデッドシー リゾート&スパ)、その正面に見えていたあの白い陸地が「パレスチナヨルダン川西岸地区)」で、その先に丁度「エルサレム」が位置していたことが判りました。

エルサレムはどこ?

ホテルビーチから望む死海とその先のパレスチナ

当時、このことを知っていたら、もっとその陸地の先に思いを巡らしたかも知れませんが、これは後の祭りです。

 

死海は海抜マイナス430mの場所にある塩湖です。その塩分濃度は約30%と非常に高く、生物はほとんど生息できないため死海と呼ばれているようです。その高い浮力により人が水面に浮く体験ができるほか、豊富なミネラルを含む泥を使った泥パックも人気です。JJ達も勿論体験しました。

死海でプカプカ。その先の白い陸地はどこ?

写真を見て頂ければわかりますが、死海で泳いでいますと(プカプカと浮いていますと?)、その対岸に白い陸地が見えます。当時もここが、イスラエルパレスチナかどちらかの国であろうとは思っていましたが・・・・。

 

浜辺で休みながらも、突発的にミサイルが飛んできたり、空爆がなければ良いけれど と なんとなく不安も感じたり。その程度の想いでしたが、その先が調度エルサレムに位置するとは・・・・

 

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今回は、聖杯から、エルサレムへと、かなり飛躍した飛び方をしてしまいましたが、それでもこうして、インディ・ジョーンズをネタにヨルダン旅行のブログを書くことで、(その1)では聖櫃が旧約聖書の時代に、(その2)では聖杯が新約聖書の時代に、JJを誘ってくれました。

 

映画解説者の水野晴郎さんの名文句として「いやぁ~映画って本当にいいもんですね」というセリフがありましたが、「いやぁ~旅って本当にいいもんですね」と言いたくなります。

 

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P.S. 「インディ・ジョーンズ」と「男はつらいよ

JJは「インディ・ジョーンズ」シリーズが大好きです。また、全くジャンルが違うかも知れませんが「男はつらいよ」も好きで、何度見た事か。

 

インディ・ジョーンズ」は冒険物語、「男はつらいよ」は人情物語というようなジャンルかも知れませんが、いずれも毎回異なる場所を舞台にしたり、訪れたりします。こんな旅物語が付加されている点は共通しているのではないでしょうか。

 

旅と言う点では、「インディ・ジョーンズ(全5作)」は世界を、「男はつらいよ(全50作)」は日本を舞台にしているという違いもあるかも知れませんが、アニメファンの聖地巡礼の様に、JJも映画で出てきた聖地を訪ねてみたいと思うことは時々あります。ヨルダンは、そんな聖地の一つでした。

 

余談ですが、「男はつらい」も一度だけ、海外を旅先とした作品がありました。第41作で、オーストリアのウィーン(寅さんは「ウィーンを大分県の湯布院(ユフイン)」と勘違いしていましたが)を主要ロケ地にしたものです。

 

最後まで読んで頂きありがとうございました。

ではまた。

ヨルダン:ペトラ遺跡からインディ・ジョーンズに飛んで、更に飛んで

ペトラ遺跡では、渓谷を覆う岩塊や凹地の砂の色合い、またその雄大さ、荒々しさに感激しました。ただここにある有名な構築物の「エル・ハズネ(宝物殿)」と「エド・ディル(修道院)」は、キリスト教と直接的な関係がないことは以前書きました。

 

しかし、これらの構築物がキリスト教と直接的な関係がなくとも、ペトラ遺跡やヨルダンを含めた周辺国は、ユダヤ教キリスト教と何らかの関りは勿論ありそうです。

 

ペトラ遺跡の山上から見下ろすあの岩の海、風に削られた渓谷の荒々しさは、まさに「聖書の時代にタイムスリップしたような」感覚を呼び起こします。

ペトラ遺跡:聖書の時代を呼び起こさせる渓谷

インディ・ジョーンズ

ところで、ペトラ遺跡の「エル・ハズネ(宝物殿)」は、映画インディ・ジョーンズの第3話に出てくる「聖杯」の在り処(神殿)として設定されています(もちろんこれは映画の中での話ですが)。

 

「聖杯」はキリストが最後の晩餐で用いた杯で、その後、十字架上のキリストの血を受けたとも伝えられています。ただ、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の絵には聖杯は描かれていませんし、映画「ダ・ヴィンチ・コード」では、聖杯が何であるかは全く違い、▽に関わるものでした。

 

また、第1話「失われたアーク≪聖櫃≫」に出てくる「聖櫃」は、「十戒」が記された石板を収めた箱で、ユダヤ教に大いに関係があります。

 

インディ・ジョーンズで出てきた秘宝を少し整理すると下表の様になります。

インディジョーンズに出てきた秘宝

こうしてみるとやはり、第3話で出てくるヨルダンのペトラ遺跡は、映画のクライマックスで登場する「聖杯の神殿」として使用され、しかも、世界遺産にも登録されており、インディ・ジョーンズの聖地認知度としてはダントツの一位だと思われます。

 

ただ、今回はペトラ遺跡でなく、映画の中で秘宝と設定されている「聖櫃」と「聖杯」が、ヨルダンならびに周辺国とどのような関りがあったのだろうかと思いを巡らしてみました(かなり変なところに飛んでしまいましたが・・・)。

 

両秘宝はいつ頃の物?

これらの秘宝が本当に有ったのかどうかは少し横に置いておいて、一体いつ頃の物だったのか、だれと関わっていたのか等を整理したのが下図です。

 

聖櫃は紀元前13世紀頃の話でユダヤ教旧約聖書)と関りが深く、聖杯は1世紀頃の話でキリスト教との関りが深い秘宝です。同じ秘宝といえども経過時間的な重みはかなり違います。

各秘宝の年代と関りがある人物・出来事

 

聖櫃

まずは、紀元前の「聖櫃」から。旧約聖書では、モーゼが神から授かった「十戒」が記された石板を収めた箱として記述されており、ユダヤ教キリスト教の信仰対象とされています。

聖櫃:もちろん本物ではありません。AIに作成してもらったイメージ写真です

箱の長さは100~130cm、幅と高さともそれぞれ60~80cm程度。箱が地面に直接触れないよう下部四隅に脚が付けられ、持ち運びの際にも手が箱に触れないよう2本の棒が取り付けられ、これら全てが純金で覆われていたそうです。確かに、インディ・ジョーンズでもそんな形になっていた様な気がします。

 

映画では、この箱に精霊が宿り、超常的な力が備わっているという言い伝えのもと、これを探す冒険活劇となっています。

 

なお、作品名にある「アーク」とはプラズマの一種で、身近なところでは、雷や溶接機に使うアーク放電が有名で、この温度は10,000℃を超えます。この超常的な力が精霊に備わっており、映画の中ではこれを見た悪人の目が、高温で一種にしてとろけてなくなるところが、非常に衝撃的です。

 

この「聖櫃」に関し、当時、どこで作られ、どこに運ばれ、どこで所在不明となったかを整理すると、ザっと以下の通りです。

聖櫃はどこに運ばれた、どこで所在不明となったのか

紀元前13世紀頃、モーゼはイスラエル人を引き連れてエジプトを出ます。追手が迫り海に追い詰められますが、モーゼが手を差し伸べると、忽然と海が割れてイスラエル人は難なくそこを通過できます。

 

その後、モーゼはシナイ山にこもり、そこで神より十戒を授かります。これを収めた箱「聖櫃」もこの頃には出来ていたと思われ、約40年をかけてやっと約束の地カナンにたどり着きます。ただし、モーゼはカナンの地を目前にして亡くなりました。

 

その後「聖櫃」は、信仰の対象として鄭重に取り扱われていたようですが、紀元前586年のバビロン捕囚時頃に、所在が分からなくなり「失われた聖櫃」と呼ばれるようになったようです。インディ・ジョーンズでは、この「失われた聖櫃」がエジプトの遺跡の中に隠されていたという話となっています。

 

当時のシナイ山からカナンまでの移動ルートがどうだったかの記録はもちろんありませんが、ヨルダン川の東側(現在のヨルダン)を南から北へ進み、最後に川を渡ってカナンに入ったというのが聖書的にも地理的にも最も整合性のある説の様です。ペトラの玄関口となる町の名前に「モーセの谷」と呼ばれていることもあるようですので。

飛行機から見えたヨルダンの地

飛んで飛んで

今回、ペトラ遺跡からインディ・ジョーンズに飛んで、更に、そのストーリー中の秘宝「聖櫃」に飛んで、話もあちこちと飛んでしまいました。

 

ただ、この飛び方は、ペトラ遺跡の山上から見下ろした荒々しい渓谷、岩塊、風に削られた岩砂漠の情景が、JJの頭を「聖書の時代」にタイムスリップさせ、それに呼び起こされた結果だった様な気もします。

 

モーゼが導いたイスラエル人もまた「聖櫃」も、このような岩塊や岩砂漠の荒野を越えていったのかなあ~ そんなことをも考えながら、ブログ作成の時間があっという間に過ぎていってしまいました。

 

長くなりましたので、「聖杯」に関しては、(その2)で。

最後まで読んで頂きありがとうございます。

ではまた。

ヨルダン:ペトラ遺跡 宝物殿や修道院はキリスト教と関係あるの?

ペトラ遺跡に関しては下図に示す一般的な観光ルート、シーク(岩の裂け目)、エル・ハズネ(宝物殿)、エド・ディル(修道院)を廻ったことを過去ブログにあげました。略図を再掲します。

ペトラ遺跡の略図

勿論、今まで見た事もない自然の造形や壮麗な建築物に感動しましたが、JJが特に感銘を受けたのは、全てが色褪せた褐色で染まった渓谷の雄大さ、荒々しさでした。

休息所から眺めた褐色の大地

キリスト教と関係ある遺跡なの?

ところで、エル・ハズネの呼称が「宝物殿」、更にエド・ディルは「修道院」となっており、また、映画『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』では、聖杯がエル・ハズネにあったとの話となっており、これらの遺跡はキリスト教と関係あるのかなあ~と、ぼんやりと思っていました。

 

しかし、一方で、この街は、紀元前2世紀頃に「隊商都市」として栄えたとのことで、当時の遺跡であれば、キリスト教は関係ないよね~とも思っており、あやふやなままやり過ごしていましたが、最近、改めて調べてみました。

 

ペトラ(遺跡)の時代変遷

そもそもペトラ(遺跡)の変遷の歴史は大略以下のようです。

 

○紀元前2世紀〜1世紀

この地を支配していたナバタイ王国(アラブ系遊牧民族)の最盛期。商業施設が整備され、都市機能が拡張。この時代に、エル・ハズネもエド・ディルも建設されたようです。

 

○ローマ支配期(2世紀)

都市構造がローマ風に再編され、浴場・劇場・列柱通りなどが追加建設。上図の「街の中心地」と示した辺りにローマ劇場や凱旋門などの遺跡が残っています。

ローマ劇場:写真では分かり難いかも知れませんが、遠くから見ると円形劇場となっています

東ローマ帝国支配期(紀元後3世紀以降~)

キリスト教化が進み、宗教施設が増加しますが、その後地震や海洋貿易の発展により、街は衰退します。

凱旋門とピンクの花を咲かせたシャクナゲ(?)

エル・ハズネもエド・ディルも紀元前の構築物ですので、キリスト教に関係していないのは確かです。また当時は「ナバタイ人」が住んでおり、彼らの宗教観は多神教で神像よりも「聖なる岩」を崇拝する傾向があったようです。これら二つの遺跡もこのような宗教観から建設されたのではないでしょうか。

宝物殿や修道院と呼ばれた理由は?

エル・ハズネとエド・ディルの呼称や建設時期等を整理したのが下表です。両遺跡の用途は、多少違うようですが、それでもエル・ハズネを「宝物殿」と、エド・ディルを「修道院」と呼ぶのは、少しおかしい気もします。更に調べると

 

・エル・ハズネを「宝物殿」呼ぶことに関しては、建物の最上部にある壺に略奪品(宝物)を隠したという伝説に由来するとのこと。

 

・一方エド・ディルに関して、「修道院」という呼称は後世のヨーロッパの探検家による命名だそうで、実際の用途とは関係なさそうです。巨大な建物と静寂な雰囲気が、キリスト教修道院を連想させたためとも考えられます。キリスト教の修道士が住んでいたと書いてあるNET情報や旅行案内書もありますが(確かに、ローマ支配期以降ではこの可能性はあるかも知れませんが)、JJはこの説は違うのではないかと改めて思いました(JJの過去ブログで「修道僧が住んでいたと言われている」と記述しましたが・・・・どうも間違いのようです。すみません)

 

映画や呼称に惑わされましたが、やはりこの遺跡は直接的にはキリスト教と関係なさそうです。当然といえば当然なのですが、調べてスッキリしました。

 

ただ「エル・ハズネ(宝物殿)」にインディ・ジョーンズで出てくる聖杯があったとしても、”昔、誰かがこの遺跡に隠した”とするストーリーであれば、それは変ではない話だとも思います。

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旅行記というより、なんだか趣味の調査記のような内容になってしまいました。現地での直接的な感動も素晴らしいのですが、JJ(爺)は、日々の時間は余っており、過去の疑問点を調べ直すことも、脳機能の活性化には良いのではないかと思っています。

お付き合い頂きありがとうございます。

 

次回は、インディ・ジョーンズの映画の方に焦点をあてて、ペトラ遺跡に関わる記事を書こうと思っています。

ではまた。

 

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ヨルダン:ペトラ遺跡 色褪せた褐色の渓谷に心打たれ

ペトラ遺跡は、ヨルダン南部の渓谷に位置し、紀元前2世紀頃に「隊商都市」として栄えたようです。隊商都市とは、ラクダなどに荷物を積んで移動する商人や巡礼者の集団が集まる中継地点として栄えた都市のこと。ただその後の大地震や海洋貿易の発展により都市は衰退し、7世紀以降はほぼ見捨てられた街となったようです。

ペトラ遺跡を拡大すると下図のようなイメージです。

一般的な観光ルートとしては、図面右側(東側)のゲートから入り、西に向かって進み、シーク(岩の裂目)を通って、エル・ハズネ(宝物殿)を眺め、昔の街の中心地を通り、休息所で休み、体力に自信がある人は約900段の階段を上り、エド・ディル(修道院)を観て、後はひたすら、元の道を帰るというルートになります。朝9時頃にゲートから入り、14~15時頃に帰ってきました。

ペトラ遺跡の概観図

2013年5月に行き、今までみた事もない自然の造形や壮麗な建築物に感動しましたが、JJが特に感銘を受けたのは、エド・ディル(修道院)登頂後に見た渓谷の雄大さ、荒々しさでした。が、まずは観光ルートに従って簡単な解説をしていきたいと思います。

 

シーク(岩の裂け目)

シーク(岩の裂け目)

前日はゲート近くホテルに泊まり、当日朝9時頃入場しました。

シークは日本の神社の参道の様でもあり、隊商が都市の中心地に入るための主要なアクセス路だったようです。この岩の裂け目自体は、水の浸食と地殻運動によって形成されたとのこと。断崖の高さは約60〜100mですが道幅は狭く、人ひとりが通るのがやっとのところもあります。両側にはピンク色の岩肌が、何層にもなって続いています。

 

エル・ハズネ(宝物殿)

この細く暗い道の先、岩と岩の裂け目から徐々に姿を現す神殿のような建造物が「エル・ハズネ(宝物殿)」です。

エル・ハズネ(宝物殿)

映画『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』の舞台となったこの遺跡は、高さ約30m・間口約25mの大きさです。

 

ここからさらに奧へ進むと、昔の街の中心地となり、円形劇場をはじめとするローマ帝国時代の遺跡が現れます。それを抜けきったところに休息所があり、昼食もここで頂きました。

 

エド・ディル(修道院

エド・ディル(修道院)への登り口

休息所で一旦休憩を取ったのち、約900段もの石段を上り詰め、その先にあるのが、エド・ディル(修道院)です。

山と一体となった荘厳な神殿の周囲には、修道僧が住んでいたと言われています。

写真左側の山に掘られた建造物がエド・ディル

エド・ディルを少し遠めに眺められる近くの丘に登り、周りを見渡します。そこに広がる景色は、岩山とそしてこの岩山が風化してできた砂の平地。更に遠くに見える岩の台地。

 

全てが、褐色のペンキが紫外線により分解し、劣化してしまった様な色合いで、木などほとんど生えていません。日本にいると、地表と言えば、木々で覆われた緑の大地を想像し、こんな風化した色合いを想像することができません。

 

下の写真は、この山に登るまでに歩いてきたペトラ遺跡の谷底と更にその先の台地です。この渓谷の色合い、雄大さ、荒々しさ。こんな情景をいままで見たことがありません。

エド・ディルからみた渓谷

エル・ハズネ(宝物殿)もエド・ディル(修道院)も素晴らしかったのですが、この渓谷の景色は、それ以上に今も頭に焼き付いています。皆さんも機会があれば是非、900段の階段を上ってこれを眺めて下さい。

 

帰路とその後

帰りは、ほぼ真上から太陽を浴びながら、ひたすら出口に向かって歩きます。二人とも無口となり、周りの風景等を楽しみもせずに、早足で歩きました。

 

ホテルに到着すると、靴もズボンも真っ白。プールに浸かり身体を冷やし、夕食後は、ホテル近くの屋外バーで一杯。乾燥した空気の中、ペトラの夜景も美しく、アルコールもゆっくりと喉の奥を潤してくれました。近くの壁にはサソリも這っていました。

疲れた一日でしたが、日本では見られない色褪せた褐色の渓谷は強烈でした。来た甲斐があった一日でした。

 

最後まで読んで頂きありがとうございました。

ではまた。

 

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ロシア:言葉が解らず、スマホも無い時代の個人旅行(その4)

(その4)は、滞在4日目~5日目の話です。

4日目はほぼ一日中、サンクトペテルブル周辺や市内観光をして、夕方に超特急(新幹線)サプサンに乗ってモスクワまで帰りました。

5日目は、午前中、デパートに買い物に出かけ、18時頃の便で帰国の途に就きました。

今回は、この二日間の内容を駆け足気味に書いています。

 

 

4日目午前:OPツアー「夏の宮殿観光」

昨日訪問したエルミタージュ美術館(宮殿)が「冬の宮殿」と呼ばれているのに対し、このペテルゴーフ離宮は「夏の宮殿」と呼ばれています。

夏の宮殿:水路がフィンランド湾に注ぎ、ベルサイユ宮殿より解放感があります

サンクトペテルブルク中心部から約30km離れたフィンランド湾沿いにあり、実際にロシアの皇帝たちが夏を過ごすための「離宮」として使用していたようです。

日本の皇室の葉山御用邸のように季節ごとの滞在拠点としての性格を持っていたようですが「葉山は冬季の静養中心(私的)、ペテルゴーフは夏季の静養+外交舞台(私的+公的)」という点に違いがあります。ただここはやはりどちらかというと外交の舞台装置として建てられたのでないかと感じられました。

夏の宮殿:噴水群

また、ここはベルサイユ宮殿を模倣して建てられ「ロシア版ベルサイユ」と呼ばれています。庭園面積や建物群の広がりはフランス本家には及びませんが、それでも海に向かって広がる解放感や噴水群はベルサイユ宮殿以上のものがあるように思われます。今回のロシア旅行で訪ねた観光地の中では最も奇麗で素晴らしいと思いました。

 

〇ロシアらしい昼食

昨日と本日の昼は、「ピロシキ」また「オクローシカ」という夏バテ防止にお勧めと言われている冷製スープ、更に「ボルシチ(冷製)」や「ペリメニ」というシベリア風水餃子を頂きました。サンクトペテルブルクのガイドさんは何かと気を遣って下さり、またこの2日間は、ロシアの代表的料理を頂き、心が少し安らぎました。ただ、これらを頂いたお店が、どんな雰囲気だったのか等、残念ながらほとんど記憶にありません。


4日目午後:フリー「運河観光船乗船」「ロシア美術館」

〇運河観光船乗船

サンクトペテルブルクは、もともと沼地で運河を掘りながら建設された都市。北のブェネチアとも呼ばれています。

当時、サンクトペテルブルクは暑くて暑くて、少し涼もうかと思い、午後からこの運河を走る観光船に乗ってみました(乗船場までガイドさんに連れて行ってもらい、そこで別れました)。ただ、結果的には涼むと言うより、寧ろベッタリとした暑さを感じるツアーとなってしまい、下船後、直ぐに涼しいと思われたロシア美術館に急ぎました。

運河観光船にて

〇ロシア美術館

ここにも素晴らしい絵画が沢山ありましたが、途中から雷雨を伴う大雨となり、蒸し暑さで疲れた体のクールダウンも兼ね、再度、気になった絵をみたり、ソファーに腰を下ろしたりして、1時間程度雨が上がるのを待ちました。

 

丁度、ロシアに来て初めて出会う日本人と思われる若人を見かけ、同様な感じでソファーに腰かけていましたので、話しかけるとロシア語専攻の学生さんでした。なんだか久しぶりにお互い日本語でペラペラしゃべり、楽しい雨宿りとなりました。

ロシア美術館で気になった絵画

雨があがり、街を歩くと一時的に少し涼しくなったようでもありましたが、その後はまた蒸し暑くなり、夕食は寿司屋に入りました。ここでの夕食の記憶はあり、過去ブログに書いていますので、よろしければそちらをご覧ください。

雨上がりの市内

その後、午後8時頃発の超特急サプサン乗車まで、クーラーの無い待合室で待ち続け、モスクワに帰り着いたのは夜の12時頃でした。

 

5日目午前:フリー「グム百貨店」

モスクワ最終日です。赤の広場に面して、グム百貨店という大きなデパートがあります。ここにお土産を買うために出かけました。

グム百貨店の内部:日本のショッピングモールより遥かに格調高い造りです

ここで、マトリョーシカ漆器のぐい飲みを購入しました。

お土産として購入したマトリョーシカ

ロシアに漆器があるとは思ってもいませんでしたが、「ホフロマ塗り」としてロシアの民芸品としては非常に有名であることは、帰国後に知りました。黒地に鮮やかな赤や金で、イチゴやベリー、花、鳥などの自然のモチーフが描かれています。JJは今でも日本酒(冷酒)を頂くときに愛用しています。

漆器製のぐい飲み:これで日本酒(冷酒)を良く飲んでいます

5日目午後:モスクワから成田へ(帰国)

買い物を終え、一旦ホテルに戻り空港へ向かいました。こちらに来た時は、空港線から違う路線の地下鉄に乗り間違えるというトラブルがありましたが、帰る時は、地下鉄から空港線に乗り換えるだけなので、間違うこともないだろうと高を括っていました。しかしこの時もドタバタしました。この状況はまた別の機会に書こうと思います。

 

その後なんとか空港に着き、チェックインを終え、JALのラウンジでJAL機が見えた時は本当に「やっとこれで日本に帰れる!」と胸をなでおろしました。

 

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関連ブログでも書いていますが、兎に角、この時の旅は、ロシア語が分からず、スマホも持ち合わせていない個人旅行でしたので疲れました。

 

昼食はガイドさんに案内され、それなりのところでグルジア料理やロシア料理を食べましたが、夕食は、4日目の夜(寿司)を除き、どこで取ったのかも記憶に残っていません。

 

そんな状況でしたので、逆に15年経った今でも、頭の片隅にこびりついている印象深い内容だけは、浮かびあがらせることが出来たのかも知れません。

ただ、一方で、最近のロシアという国から思い浮かぶ暗い言葉(戦争・独裁国家・侵略等)は、赤の広場や国立歴史博物館の一部と結び付けられた程度で、当時のアルバムを開いてもそれほど連想することは出来ませんでした。

 

今回は、長きにわたり(その1)~(その4)まで、付き合いいただきありがとうございました。

ではまた。

 

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